2011年05月14日

東北と焼津のつながり

今回の震災で被災された東北地方とわが町焼津の歴史的な「つながり」を焼津の市民の方から教えていただきました。

東北と焼津のつながり


焼津と被災地

毎日テレビで今度の地震についてやっていますから、三陸各地の地名は充分ご承知の事と思います。

そこで毎日出てくる地名の八戸市、宮古市田老、宮古市、釜石市、気仙沼市、女川町、石巻市、塩釜市の各漁港と我が焼津との関係について是非で知って置いてもらいたい事をご連絡いたします。

毎日、三陸各港街の被害状況をテレビで見ているわけですが、その各湊が昔から焼津と非常に深い繋がりがあります。まず青森県八戸からはじめます。ここも港の岸壁がやられ接岸できないし街も大分やられたようです。現在も未だ岸壁は殆んど使えないそうですが、この八戸は昭和29年以降に八戸沖へ鯖の漁場が大きく形成されまして焼津、小川の鯖船が一斉に八戸沖へと出漁しました。焼津、小川の鯖船は性能も腕も良く他所の鯖船を大きく離していたわけですが、連日の鯖を満船にして八戸港へ入港し水揚げをしました。

焼津へ鯖が水揚げされなくなったのだからシオ鯖屋は商売にならない。そこで八戸に進出して向こうで加工場を借りてシオ鯖の作り、京大阪方面へ出荷しました。その鯖豊漁もやがて終わったのですが、それ以降は焼津船は大型、中型のイカ釣り冷凍船が出来て八戸を基地にしてイカ漁をやり八戸へお世話になり焼津イカ釣りの組合は八戸へ出張して大変お世話のなったのです。昭和45年頃からは八戸の中型冷凍マグロ船の外船誘致に成功し、5~6隻が焼津へ入港し始め、焼津港を基地にして水揚げをしてくれました。八戸水産学校の練習船の「青森丸」と言う船も焼津を基地に操業しました。S50年頃からはマルミさんを問屋にして惣宝丸と言う近海まき網船が近海鮪や鰹を獲って随分激しく入港をしてくれました。

次は宮古市ですが今度の津波で極めて凄い被害を受けた田老と言う所あります。ここは高さ10メートル長さ2,4キロの防波堤を作り日本一津波に強い街で町民は自負していました。この街は明治29年6月に明治三陸沖地震の津波で185人。昭和8年3月3日の昭和三陸地震で911人の犠牲者が出ました。S9年防潮堤工事に着手して堤防を作りました。その後もう一本堤防を作って2重構えになりましたが、ここは国外からも高く評価され研究者が視察に来たところですが、今度の津波では世界に誇ったこの防波堤も全くダメで簡単に波に飲み込まれ多くの犠牲者が出ました。

この田老の漁協の直営の中型冷凍マグロ船が昭和48年頃から焼津を基地にして長年焼津へ水揚げしてくれていましたが現在は廃船になりました。

次は宮古市ですがここの冷凍鮪船も何隻も焼津へ水揚げしてくれましたが最近でも2隻位毎航海、焼津へ水揚げしてくれています。焼津魚市場では毎年三陸方面へ外船誘致に行き宮古へよりますが、以前は漁協の専務と延縄鮪組合の組合長が二人付いてくれて一緒船元を回って焼津入港を勧めに歩いてくれたものです。

そんなことで宮古の鮪船も私の現役の頃は焼津を基地にして操業をする船が随分居ましたが最近は減船で宮古も鮪船は減りました。皆さんは新聞やテレビで多分みんなご承知と思いますが、今度の震災で宮古水産高校の練習船「リアス丸」が焼津へ水揚げした後、船は帰ることが出来ず学生だけでも帰宅させようとしたのですが交通網がダメで帰れなくなり22日にヤット生徒だけが大阪空港経由で飛行機を利用して故郷の宮古へ帰ったということですが、この水産高校の船は毎航海、焼津へ入港し水揚げしてくれています。

釜石の鮪船も現在3隻位が焼津を基地にして操業しています。大船度と陸前高田からの入港船はありません。

次は気仙沼ですが、ここもテレビで見る通り随分ひどくやられています。気仙沼という港へ行くと焼津の船の船名と同じ船名の船が沢山います。それは昭和初期に焼津船が大型(当時)の鰹船にした時に、この気仙沼の船元衆が焼津の下船を買って行ったのです。船名はそのままにして漁をしました。何故船名を変えないかというと「焼津の衆がこの船で稼いで大きく成ったで俺らもその恩恵サをこうむって、縁起のエエ名前のままで頑張るペエッヨ」と言うことで縁起を担いで敢えて改名をしなかったそうです。

そんな深い繋がりがあり、向こうの鰹鮪船は何隻も焼津へ入港して水揚げをしてくれています。私が市場へ在職の頃は鮪延縄船の餌(サンマ)の仕込み場所でもありました。私は気仙沼へは外船誘致と併せて餌買いでも随分行きました。今度の津波で魚市場の建物は何とか残ったらしいが、港前の船元事務所や魚問屋事務所が沢山ありますが岸壁に居た係留船が津波で道路まで上がってきて、そのまま各事務所を潰したそうです。海岸線は殆んど全滅らしいです。鮪餌で取引のあった冷蔵庫2社は全滅で波が綺麗に整地してくれ、片付ける物は何もなかったという電話でした。港周辺には冷蔵庫。水産加工場が集中していましたがその殆んど全滅で駄目だそうです。

次は南三陸町ですが気仙沼の鮪船の船員はこの南三陸町の歌津と言う地区の人達が殆んどです。従ってこの船員等も顔見知りが沢山いましたが、その頃の人は皆年寄りになって下船していますが多分流された人が沢山いることと思います。

次は女川町ですがここも随分きつくやられたそうですが、この街の冷凍鮪船もよく入港してくれました。現在は「海まき船の宮丸」と言う船が焼津を基地にして水揚げしてくれています。

次は石巻ですがここも毎日テレビへ出ます。皆さんもあの惨状を良く見ていると思いますが、実は現在焼津を基地にして操業している海巻き船は全部で35隻あります。そのうち石巻船籍は大慶丸1隻や八興丸2隻。恵久丸2隻の海まき船があります。各会社の事務所は津波でやられたと言う話を聞きました。35隻全海巻き船の船員は殆んどがこの石巻の人達です。地震で全海巻き船は漁を途中で止め焼津へ帰港して水揚げ後、直ちに救援物資を積んで全船、石巻へ行きましたが大半の船員の家が流されたとか、或いはご家族が不明、或いは死亡された方とか言う船員が沢山いるという話を聞きいております。お気の毒なことでした。こんな気の毒な船員家族を焼津でも市営住宅等へ来て貰って避難住民として住んでもらえば船員の皆サンも喜ぶだろうし、今後の焼津発展のためにも良いことだと思います。又私が在職中いつも鮪餌を石巻でも仕入れていた大江冷凍と言う会社も津波で綺麗に流されたそうです。焼津の三洋食品が石巻へ工場を持っていますが、そこに私の親戚の北原と言う人がいました。今月12日夜電話で話をしたら、魚市場の岸壁は70センチ以上沈み船は全然接岸が出来ないし600メートルある魚市場の上屋は傾き、水揚げどころか船が岸壁へ近寄ることも出来ない。沈没船や流された自動車が岸壁付近は一杯だそうです。石巻は魚市場を取り囲んで沢山の冷蔵庫や水産加工場があったのですが、殆んど全滅で冷蔵庫に入っていた魚類は全部解けて腐敗しだして、匂いがきつくて近付けない状態だそうです。流された加工場、押しつぶされた冷蔵庫は無残な状態だそうです。アバラだけ残った建物だらけでテレビには写らないけれど滅茶苦茶な所が沢山ありすぎて話しに成らないそうです。

石巻駅前から女川方面へ行く幹線道路がありますが北上川の河口を跨いで大きな橋があるのですがその上に漁船が上がっていてウッタマゲタそうです。10日くらい前にようやくその船を下ろしたそうです。石巻に渡波港と言うところがありますが、ここも嘗ては焼津の鮪餌の買い付け場所でしたが全て流されたそうです。

次は塩釜ですがズット以前は焼津の船は三陸漁場へ移った時は全船塩釜港へ入港して大変賑やかだった時期がありました。焼津船はいつも大漁をしたから銭使いもよく、飲みに行けば一番持てたそうです。飲み屋街はいつも焼津の船員で満員だったと言われました。入港の時は仲忠魚問屋という問屋に全船お世話になりました。私が魚市場在職中はよく塩釜へ出張してお世話になりましたが、この仲忠サンは焼津船には特に力を入れていたのです。漁場が三陸へ移ると焼津には鰹の水揚げが無くなってしまうので塩釜へ行って鰹を買い付けをして焼津へ送ったのです。その面倒は全部この仲忠問屋がやってくれました。又仲忠サンの隣に竹下商店と言う問屋がありましたが、この人は用宗の出身の人で焼津の船員の面倒を良く見てくれました。船の問屋は仲忠サンでも若い船員は焼津言葉の通じる家の方が気楽だから若手は竹下さんへ話しに行ったものです。

仲忠サンは毎年焼津船誘致に来って船元へ挨拶に回りました。

又2代目社長は96トン型の中型冷凍マグロ船を経営していましたが焼津を基地にして入港、水揚げしてくれました。三陸から北海道の同型の鮪船を沢山世話をして焼津へ入港させてくれました。私は退職後も塩釜とも良く電話をしていましたが、今度の津波でこの2軒は全く連絡が付かず、塩釜市役所安否相談所と言うところへ電話して安否を尋ねましたが、役所で言うにはそこの家付近が一番早く流された場所ですからと言うだけで全く要領がつかめなかったのですが、一昨日の14日朝、向こうから電話が来て無事を確認しました。

次いわき市小名浜ですが、ここの近海まき網船の寿和丸という船が毎年春から夏まで近海漁の時期が始まるとマグロや鰹を獲って焼津へ水揚げしてくれましたが、この寿和丸は一隻陸地へ揚っている写真がアサヒグラビアに載っていました。

又いわき市四ツ倉と言う港があり昔は鰹の水揚げが多く鰹節を作ったが製造技術が未熟で高く売れなかった。明治の末期に焼津の鰹節職人を先生として呼び製造技術を習ったそうです。それ以降、四ツ倉の鰹節は高く売れるようになり、街中挙げて感謝した。そこで町では焼津の今村長吉さん(十長)と言う先生に感謝して「改良鰹節の碑」と名付けて鎮守の諏訪神社境内へ今村先生を顕彰する為の碑を建てたのです。そんな昔からいわき市とは深い関係があるのですが先日電話で話したところこの四ツ倉でも街中が殆んど水浸しになってしまったとの事でした。又この地区は原発の33キロ内でハラハラしているとの事ですが先だっての12日以降の地震で電話が通じません。

焼津と今度の各被災地とは深い関係があるんだなぁと教えていただきました。


だからこそ、焼津でできることを現在「まちづくり塾」のメンバーや市民のみなさんと協力して考えています。









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Posted by まちづくり塾 at 22:02│Comments(0)つながり
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